自我の個数と共依存のジレンマ胡麻味噌和え
護摩行───それは暗黒面との対峙、あるいは自己の内面という名の正義の討伐、否、全能の神との全面戦争の側面である。
信仰の対象となるに値する存在として『スパイス』があるわけで、それにまつわる話題をここから───────────
───別に始めない。
シルクロード、愛は千里、である。
根性論は根性焼きで解決する。あるいはスパゲッティ。
────そろそろ本題に入ろう。もう忘れたが。
某銀河天使的なアニメーションのサブタイトルは毎回料理名風になっていることから何か広げようと思ったが、思いの外拡張の規模がペルシア止まりだったので世界は広いなぁと感心している。せざるを得ない。セザンヌ。
今回は編集開始から2度ほど(一度)の尿意の一生を見送ってしまったのでコンセプトが破壊されてしまった。
故にもう話題とかそういった話ですらない。
要はこれからの、未来の話である。
《時》は食事イベント(があるかもしれない)、《時》は映画鑑賞というそれぞれビッグイベントが並んでいる。
先日、本来あるはずだった食事イベントが遠足当日の小学生のような体調になり職場放棄の状態を得たので、《時》になる運びの可能性が辛うじてある。
というのも、これは落胆や絶望や破綻があったからである。
少なからず《性別》との食事ということで付与される属性を鑑みると分岐は多いと思われるが、《性別》と普通ではありえない邂逅をしており《一人称単数》にとっては””有り得なかった過去””とだけなったのだ。
──────────────唐突だが。
ここに透明なコップがある。材質は硝子。透明度は高く、無色透明と形容して差し支えない。
硝子で出来ているため、重量は結構ある。
目の前のテーブルに置かれている。
そこに、透明な、純粋な水が注がれる。
無味無臭。無色透明。屈折率も高い方ではないだろう。
こうして土台は出来上がった。
ここで問題である。
このコップの中身を確かめるには、13人目の忍者は一体何を手に取ればいいだろうか。
答え。
答えは。
この問の答えは───────────────
───────────そんなものは無い。
情報が足りない。否、情報過多である。
情報が追加されたことによって情報が少ないことが分からされたのである。
みっともなく勿体ない、人生みたいだ。
眩しい鏡は割る前に埃を被せればいい。
それと同じである。
────────────つまり。
映画が楽しみで、楽しみであると。
それと同時に楽しみすぎる感情を持つのは危険であると。
《三人称単数的一人称単数》はそれを知っている。知っているから《一人称単数》は大した思考もないままに時に乗っている。
タラタラと流れるのが時でなく川であればいいのに。
《一人称複数》はどれほど願ったことか。
しかし現実はそうではない。
そうではないのだ。
規範に従え。
《三人称単数》を赦すな。
───────────いいや。
何者にも従う必要は無い。
暗黒面があればそれ以外の面すら黒く塗り潰される。
暗黒の定義は恐らくそれに近いからである。
ともかく。
指の反応が悪いのではおちおちここに想いを馳せることさえできない。
尿意さえないのである。
《三人称単数》の敵が壁であるように、
《一人称単数》の敵は尿意なのである。
ただしこれは妄想であっても非現実ではない。決して逃れることのできない現実であり、永遠に来ないで欲しい未来である。
それは過去のことだが、決して現実にだけはしてはならない。
未来の話をしよう。
そうすればきっと、《二人称複数》は救われる。掬われない。
足元を見ないで。
鳥の糞が落ちてくる。
──────────────となれば。
焼き鳥しかあるまい。食事である。
焼き鳥は確か遠くもなく近くもない位置に位置した記憶があるのだがモチベが上がらんな。
察してくれた人はさすがだな。
《一人称単数》は眠い。
眠過ぎて表記が揺れ、迷惑の類が生じる前に。
幕を閉じよう。
幕を閉じよう。
怒りを沈め、身を委ねよう。
とりあえず前兆である。
前夜祭である。
野菜はしっかり食べよう。
それではまた懲りずに健康に気をつけて。
おめでとう。
おめでとう。