今朝夢に出てきた再従姉妹の黒髪

再従姉妹と結婚しても近親婚とは言いづらい距離なんだよね

オタクが哀しい。人称は。

突然だがこれは””オタク””という言葉の語源について語るものではない。
というか調べて書き連ねるのが非常にめんどくさい。そこまでこのブログに命をかけていないからである。

ともあれ、さすがに””オタク””という概念について全く知らないという人もいるであろうから、軽くオタクというものについて触れておく。


須らく、オタクは異物である。


もう一度言おう。


須らく、オタクは異物である。


以上である。いやさすがにここまでにしておくには弊害が……などという甘えたことを言っていると、パンケーキになってしまう。ちなみにパンケーキを食べたことがないのでどういう喩えなのか分かっていない。

所謂、「オタクに人権を」が甚だお門違いだということである。

古来より、何かに熱中して一途な集団は、タグをつけられレッテルを貼られ、外へと追いやられてきた。宗教はそのひとつの例ではあるが、歴史の中心あるいは核たる要素であるため少し毛色が異なる。
具体例を挙げると不知がバレるので避けるが、””えた・ひにん””と呼ばれた者達の存在は、その定義にハマるだろう。

考えなしに、下調べなしに。これがこのブログの基本理念である。間違っていても間違っているだけであり、何かの陰謀とかではない。陰謀論者の詭弁には時折呆れ返るが、このブロクは基本詭弁なので人のことを言えた義理ではない。義理と人情というのも詭弁の域を出ないが。

話を惑星楕円軌道に戻すと、オタクはジャンル問わず何かに一点集中で没入し、時に他を捨てさえする人類の一種のことである。
これらを排斥する所謂””イッパンジン””という種族は、何に関しても大した興味をもてない哀しい一族ということになる。

そうした興味が帯に短し襷に長しな浮気性達は、一途な愛に憧れているのだ。故に阻害し、迫害し、除け者にする。要は僻みである。そんなものに構ってやる必要は無い。ただ、イッパンジンの意志は残念ながらかなりの強制力と干渉力を持っている。シャカイとかいうものはこのイッパンジンが作っているからである。

他を僻み続けることでしか子孫を残せないのだが、オタクという民族がこのシャカイと闘い、イッパンジンに抗っていくためには、敵を知る必要がある───のだろうか?もう、痛いほど知っている。

我々はオタクであるのだろうか。さすがに何にも興味がない人類いないだろう。それなりに何かをしているのである。

ただイッパンジンが興味を持つのは、人類のことである。そしてそれは概ね人類の悪の側面である。

所謂””陰口””こそイッパンジンの主たる言語活動の根幹語彙である。

イッパンジンは哀しい生き物である。と私は言う。

だが、

オタクは哀しい生き物である。とイッパンジンは言う、だろう。

オタクと呼ばれる人類は、イッパンジンと呼ばれる人類と使用する語彙も文法も異なる言語を用いている。信じる神も異なり、活動形態や信条さえ全く異なっている。明らかに別民族である。

オタクは国家を形成する勇気さえないのだから、やはり哀しい生き物はオタクなのだろう。如何に自らが哀しいことに気付かないことを他人が憂いたところでそれがその生物の物哀しさを示しているとは言い難い。

脈絡

一応タイトルに準じようとしたが微妙にずれている気がする。


ここで、オタクという人類の真髄や定義や本物というものについて思いを馳せる。

喋り方や動作などで一目瞭然ではある。オタクとイッパンジンでは日常所作に明らかな差異があるからである。

自己以外の人類とコミュニケーションをとることが可能であり、自己以外からの好感度が標準以上である人類は、””オタク””だろうか?

これは自称でも他称でも定義は難しい。しかし、オタクとはやはり人に好かれてはならないのである。

もちろんこれが今回の記事の根幹である。

オタクは異物である。

””脱オタ””という言葉は、宗教の鞍替えに違いものを持っている。あるいはそれ以上である。

オタクとは””生き方””より強い言葉である。民族名であることに特に違和感はない。

オタクという言葉が生き方を定義するのか、生き方がオタクを定義するのか、どちらでもいいが、オタクは異物である。その域を漏れてはいけない。オタクではなくなってしまう。もちろん悪い意味で。

オタクが一人称にも二人称にも、あるいは三人称にもなる便利な言葉であることからもわかるように、多義語であるこの人類系統指示語は誤解を招きやすい。

意味を拡げて拡げて碌に拾いもせず解釈を読者に委ねるのは愚者だろうか?

普通に人望があって普通に仕事できて普通に会話できる。それはオタクではない。一例の中でいえばそれはあくまで「たまたまアニメが好きだっただけのイッパンジン」である。我々とは相容れない存在である。

魂の質でさえ感染症であるから、この定義はなかなかに困難を極める。オタクという異物がこの世界を制した時、イッパンジンという言葉は今のオタクに置換される。

あくまで相対的な話だ。

この世は所詮相対的だなんて認めたくもない。苛苛する。

夢のまた夢たる現実がオタクという異物を産むのなら、現実の子孫たるイッパンジンはオタクならざると言えるのだろうか。

活字に触れて5分で睡魔から逃げ出した哀しいこのオタクが切ない時間を生み出したのなら、確かに疎まれるべき存在なのかもしれない。

自己肯定や自己否定に用いられるオタクという語彙は可哀想だと思うが、語彙は使われなくなった瞬間が死である。という気の遠くなるような詭弁で場を和ませる私は、ここで幕引きとさせて戴く。

何も考えない者が第一に考えるのは自己のことである。これはあくまで通念であるが、オタクは隙あらば自分語りだという言葉もある。ここはその通年に従って置いた方が良さそうである。

それでは形に則って、全人類の健康息災を心から祈って巣に帰るとしよう。