届いていた声
身支度を済ませて家を出る頃には既に14時を回っていて、お昼時を躱せたのでそれはそれで良かったのだろう。私はそう思って財布を開いて所持金額を確認した。
家の外で財布を開くのは不用意だろうか。ここは腐っても大都会東京だ。どんなところで誰に見られているかわからない。───いや、地元でもないのに「腐った」なんて表現をするのはダメだな。東京に生まれ東京に育ち、東京を愛し東京に愛されている人達に失礼極まりない発言だったな、撤回します。
私は自分に自分でツッコミを入れる程度に精神を回復させていた。メンタルとフィジカルはどうも繋がっているらしく、着替えて化粧をしたら不思議と鼻歌を歌うほどにはなっていた。まあ絶望に中での起床は慣れていて耐性がついたとも言うけれど。
私はとりあえず駅の方へ歩いた。東京に住んで10年ほど経つが、未だに東京という街には慣れておらず勝手が分からないものの、駅の方へ歩けば大抵のものはあり、大抵のことが出来る、それだけは分かっていた。
先程財布とにらめっこした時に既にどこに行くかは決めていた。少しだけ余裕があったのと先程との精神落差により過剰に気分が良くなったという錯覚が、最近出来たイタリアンレストランへと足を運ばせているのである。
それにしてもオリンピック様々である。昨年開催された東京オリンピックが与えた経済効果は絶大で、都心から少し離れたこの辺りの駅前の開発もどんどん進んでいった。
そしてそれだけではなく、文化面でも大きな発展を遂げていた。アニメにおいてもそれは例外なく訪れ、オリンピックに合わせてスポーツ物のアニメが多数制作されて人気を博した。─────どれも私は出演していないけど。
大丈夫。もうそんなことで落ち込んだりしない。私だってもう今年で26だ。家の外に出たら社会人スマイルの仮面で顔を隠す。そしてすっかり名も消えたのでマスクなどで変装しなくても街で声をかけられることは無い。干され声優バンザイである。はは。
そんな自虐散歩を続けていると目的地に着いた。そしてそこで思わぬ邂逅によって、マスクをしていなかったことに後悔する羽目になる。
「たやりそじゃーん!久しぶりー!元気だった!?」
マスク越しでも大きくはっきり聞こえるその特徴的な声は、紛れもなく華斑巫女さん───みーさんのものだった。だがそれは有り得なかった。
「………………あれ?桐タンポ出てましたよね?」
「…あ、うん。………あっ、見ててくれたの?ありがとう!でもあれは録画なの。ここだけの話、あそこだけ昨日録ったやつを放送しているの!」
時間的には大して見てはいなかったが、体感的には永劫の時間見たようなその顔を、こんな短時間にもう一度見るとは思っていなかったため、驚きのあまり挨拶を返さずに質問をしてしまった。だがさすがはみーさん、すぐに切り返して情報を付け足してくれる。そこまで言っていいのかはギリギリなところだと思うけれど。
「………………とりあえず、中に入りましょうか。」
私は昏い後ろめたさから店に入り、もはや小走りのような足取りで急いで席に座った。壁際のテーブル席だった。
「最近ここよく来るんだよねー。そういえばさ、こないだたまたまイカの塩辛買ってみたら””たやりそ””のこと思い出してさー。好きだったでしょ?イカの塩辛。」
先程言いそびれたが、「たやりそ」というのは私のあだ名である。由来は「巣南 妙耶(すな たや)」→「たやちゃん」→「たやりん」→「たやりそ」だったと思う。なんだかすごく懐かしい響きだった。声優の仕事以外では呼ばれない名前だから。
それにしてもみーさんは本当にいい人だ。気まずそうに下を向いているしか出来ない私に代わって話を切り出してくれたし、その話題のネタもアニメ関連や最近どうしてるかなどではなく当たり障りのないそれでいて嘘だったとしても分からないような絶妙なところをついてくる。本当にこの人は非の打ち所がない。だから嫌いだ。
「みーさん。私………………」
しかしあえてその話題に応えずに全く別のことを切り出そうとした私にみーさんは
「たやりそ!泣かないで、そんな顔しないで!分かってるから。私分かってるつもりだよ!?だから泣かないで。」
なんてことを言い出す。この人は何を言っているんだろう。いくら私が普段ほとんど人と会話を交わさないからと言ってこんなことで泣いたりなんて───────していた。
両目から煮え滾るほど熱い二本の川が流れていた。
いや、これは綺麗なものの描写などではなく、化粧を剥がしながら下る冷徹な激流だった。
「みーさん…………私っ………わ………ごめん…なさい。ごめんなさい…ごめんなさあああああああああああああああああああいいいいいいいい──────────」
私は決壊した。25歳にもなって情けない。みっともない。先輩に泣きついて泣きじゃくって、おしゃれな店内の雰囲気をぶち壊す大声で泣き叫んだ。
やれば出来るじゃん、私。しばらくボイトレすらしてなかったけど、意外と声出るじゃん。
ただ、その後食べたスパゲッティの味は全く覚えていないし、たぶん何も感じられなかったと思う。
「本当にずびばぜん、ずびばぜん………結局パスタも奢ってもらっちゃって……」
「とりあえず顔拭いて、鼻かんで?ほら、大丈夫だからね。気にしないでね。」
この先輩はなんでこんなに優しいのだろう?女神かな?そういえば「もやし」の正体は実はピカこたちに力を与えてくれた女神様だったっけ。
結局、私は自分が泣いた理由も、みーさんが私の何を分かってくれているのかも何一つ分からなかった。ただ、この人がちゃんと私を分かってくれているんだなと言うことは伝わった。そしてこの人が口だけじゃないことを私は知っていた。
「あのね、私思うんだ。きっとスタッフの皆さんも分かってくれてる。たやりそがしっかり十分反省してるって。」
嘘だ。反省なんてしていなかった。私は全てを他人のせいにして殻に閉じこもっていただけだ。あんなに大声を出したのはピカこの最終回の時以来だった。
それでも、きっとこの人は全部分かった上でこう言ってくれているんだ。私は本当に持つべきものを持っていたんだ。
才能とかそんなものじゃない。きっとそんなものはない。どこにもない。
私が持っていたのはかけがえのない存在ってやつだ。大切な人。ずっとこの人は──みーさんは私のことを心配してくれていたんだ。
じゃないとこんな所でばったりあったりなんてしない。さすがに桐タンポ!の収録のことは嘘ではないだろうけど、家の方向が全然違うこんなところで、しかもイタリアンはそんなに得意じゃないみーさんがこんなところに来るはずがないんだ。でもきっとなにかの情報を掴んで私のことを探しに来てくれたんだ。
薄っぺらい才能なんかじゃない、努力という本物の才能によって重厚に積み重なった華斑巫女というこの女性は、こんな私のためにここまでしてくれるんだ。
だから私は決めた。恥も外聞もない。さっきレストランで全部吐き出してきたから。私はみーさんに心の内を全てさらけ出す。
「みーさん。私、結婚します。いえ、私と結婚してください。今は収入も安定しないし未来もなんにもないけど、必ずもう一度夢を掴んで舞い戻ってみせます。だから、どん底の私がはい上がれたなら、その時は、私のお嫁さんになってくれませんか。」
「……………………………はい。私で良ければ。」
少し戸惑った様子だったがすぐに優しく微笑み、私の手を握ってスキップをしながら公園の方へと私を引っ張った。
E N D