模索中の与作、コサックダンスが佳作。
ということで、
今回はもう少し余白を
とることにしました。
ブログってやたら体積があるイメージだけど密度は薄いっていう潜在意識がそうさせたのでしょう。
でも余白の使い方がよくわからないのでそのうち元に戻りそう─────────
そして今回は────────────────────
これから何度も語っていくことになるであろう運命の宿敵────
そう、『尿意』についての話題である。あります。あらせられます。
そして毎度の事ながら様々な文体を試すという実験場でもあります。
というか見られることを意識してないのでいつも通りというわけです。
余白以外は平常運転
ということで《一人称単数》は尿意が嫌いなのです。憎悪対象です。八つ裂き光輪斬です。
理由は敢えて語らず。ここで一挙に語るには忍びないからである。忍べ。
要は致しの邪魔をし、集中力を削ぎ、時間や位置を拘束するその存在を《一人称単数》は赦さない。
断固として和解の余地はない。
《二乃至三人称複数》はどうだろう?尿意は好きかい?
尿意のことが好きな奴なんていない。そんな奴は便意だ。クソ喰らえだ。
──────これは余談であるが、「クソ喰らえ」のイントネーションには地域性があると思う。
これは偏見だが、特に東《国名》と西《国名》で対立しているように感じる。
《一人称単数》が特に気に触るのは「ク””ソ””喰らえ」と「”ク”ソ”喰”らえ」との差異である。表記上とてもわかりづらくなったので追記する。
《一人称単数》はソ派である。しかしクand喰派の存在もある。こちらはアクセントが2つだ。
そして思い返すと確かに東西に依存する関係と言えそうだなと想いを巡らせた。
クソ喰らえのアクセントについて考えていると本当に「クソ喰らえ」という気分になる胸糞悪い話題である。
────────と、クソほどにもないまとめで締めた訳だが、ともかく尿意の話である。
便意もまた致しの邪魔をするがこれは腹痛を伴う。痛みは危険信号であるから適当に出させておけば良い。
危険なのは自分がよくわかっている、ということである。
分かっていないというのも含めてちゃんと分かっている。
日々の中で尿意に媚びて良いことなど一つもなかった。尿意は《一人称複数》にとって外敵であり、害悪であり、粗悪である。祖悪とも言える。
────────最近思うのである。「《二人称単数(不特定対象)》残尿者か」と。
横断歩道という機構がある。
本来横断することを禁じられた車道において許された唯一の架け橋。
まさにシルク=ロードといった具合だが。
これを走って渡るのはいい。通行する自動車の邪魔になるまいと努力する様はしばしば心地良ささえ抱かれよう。
しかし、多くの場合《三人称複数》はその全体量の八割を超えるか否かというところで一気に減速する。
停止したかと錯覚させるほどである。
つまりはゴールテープ直前で速度を弛めるな、あるいは最後まで気を抜くな、ということである。
交通の邪魔になること請け合いである─────などという綺麗事ではない。
《一人称単数》の邪魔をすることはどんな罪よりも重い。
と独裁の王らしいことをいって、一例の締めとする。
上のような横断手法を『残尿横断法』と名付けている。
なんかカッコイイ。
あるいは。同じような例がある。
───””同じような””というのは、またもや交通関係の議題であるからである。
危険信号の一種であるところの赤色灯。これが正面にある時。《一人称複数》は停止しなくてはならない。
これは忌々しくも法律などという欺瞞の類であるが、《一人称複数》が《二乃至三人称複数》と共に移動するという環境下においては、これは欺瞞から義務へと変貌を遂げるのである。
故に───というわけではないが、とかくこれは致し方のないところである。
と《一人称単数》は割り切っている。
これは褒められてもよかろうて。
それはいい。そこまではいい。
問題はその後である。
AT車に多く見られる傾向である。
AT車の機構として、ブレーキを離せば移動するのである。
────時は赤色灯の消失と青色灯の出現を待つその瞬間、《三人称単数乃至複数》は。
発進をする。
そこまでの加速ではない。前述のAT車特有の機構である。
これは便利なものといえる。だが、《一人称複数》は守らなくてはならない。
赤色灯を。
赤色灯が示すのは『停止』。《一人称複数》は遵守の徹底を認知し、待機する。これが理である。
しかし、青色灯の出現を待たずしてシステムを利用して地味な発進を繰り返す。
これは『悪』である。明確な敵である。
《一人称単数》はこれを赦すことは無いし、同時にこのような行動をこう形容している。
───『尿切れ』と。
尿切れの悪い論調は《一人称単数》の得意技であるとはいえ、膀胱に溜まる尿のように《一人称単数》のストレスゲージを埋めていくその行為を《一人称単数》は赦す訳にはいかないのである。
────────────────────つまり。
今回の尿意の話題は、交通関係のモラルの欠如、ルールの本質的忘却、それらに該当する。
街灯照らす夜道にさえ、尿意が潜んでいる。
《二人称単数乃至複数》も、夜道には十分尿意への注意を忘れず、健康に気をつけて頂きたい。
それでは《二人称単数》の無病息災を心より祈って。
それではトイレに行ってきます。