オアシス・クライシス
まずは──────この言葉から始まると今後の文構造に制約を設ける結果となってしまうことを念頭に置いて──────前回の記事について触れざるを得ないだろう。触れずには居られない、とも言う。
まずは──────ここでこの言葉を重ねることにどれほどの意味があるだろう。そもそも万物に等しく意味は無いのだが──────謝罪だとか釈明だとかそういった『払拭』の儀礼を行わなくてはならない。のだろうか。
まずは──────三度目の正直とはどのことだろう?『正直』という概念の挑戦は飽くことなく続いていると云える──────そう。結果を。どうなったかを。顛末を。終結を。終滅を。あるいは。愁滅を。
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《暦》でいえば《季》が終わりにさしかかり、《季》に入ろうとする時分である。それを『今』に定義する。
であるからこその《愁》だったのだろう。
故にここに、あるいはこう宣言しておく。
『勧善復活である』と─────────
───勧善。なんとも傲慢かつ偽善に充ちた欺瞞である。
故に《二人称複数》はこれを好む。
また《一人称単数》もであるが。
ともかく””復活””をした。
現世と切り離されたこの空間こそを『善』とする精神状態に返り咲いたのだ。
これは救済か。それとも終焉か。
──────『すくう』とは何か。
これは杓と水を思い起こせば分かりやすいが、要するに移動を示している。
『すくう』とは現在いる空間から特定の乗り物に乗り、別の空間に移動することを指す。
『救う』とはまさにこれであろう?
《一人称複数》は度々これを求めた。求めた───が。
『救い』とは『掬い』でしかないことを忘れてはならない。
つまり原義的に問題を先延ばしにしたというだけのことである。
『救済』はあくまで『移動』なのである。問題の根本的解決なぞ望めるべくもなし。
────────さて。《電子的遊戯》の催事の最中、一区切りを得たので《空間》に滞在しているわけであるが、だからこその《空間》である。
前回というものが、やはり余りにも──────あえてここで感情を持ち出すのであれば──────色でいえば赤。体温でいえば上昇。時に頬は紅潮し、時に髪は膨張し。──────
つまりは自己を見つめることに対する羞恥の念を周知にするということが目的である。
まずは──────この言の流れは一応ここで断絶するとする──────まずは。
それこそが今回の目的の全てである。
それを云いたかった。
さて、であるからして。
今回は柄にもないことをしようと思う。
それは、前回が柄にもなかったからである。
””柄””とは「ghalla」だろうか───ともかく「がら」だろう───それとも「aiech」だろうか───ともかく「え」だろう───その実態は。
えにも描けない美しさ、というやつだろうか。
えも言われぬ、な。
ともかく空白については前回を引き継ぎ十分に取った心算である。
そう。タイトルへの言及である。
──────とはいえ別にこれといった理由やら根拠やら何かがある訳でもない。
砂漠世界においての楽園をオアシスと定義するのなら──────死領域世界と脱死領域世界への言及として──────砂漠世界の存在領域は多重構造を取っているといえる。
そしてそのオアシスももう終わり。
終わりなのか。もう終わっているのか。
それは別に問題ではない。
だが、オアシスにあるのは生の象徴『水』であるべきだ。
《一人称単数》にとって『水』とは何の事なのだろう。
スライムに水は必要不可欠であることをもっと知って欲しい。
だが前回におけるオアシスと今回におけるオアシスは全くの別物である。
───結果的に、あるいは潜在的に、ではあるが。
表裏の一体を為すを善しとするわけではないにしろ、少なくとも前回のオアシスは今はなく、今回はオアシスを探すことこそオアシスと見つけたり、という精神状態である。
精神。
しかしいつまでもこの通りでは───自己の表現あるいは世界との交流───駄目だとは思う。
要するにこのブログの基本概念「考えない。伝えない。」を護ってだけいてはやはり発展しないのだろう。
─────────時に《三人称複数》は発展を第一としない。停滞を切望しているようでもない。
何も考えていないのだろう。これは停滞とさえいえない。これは「滅び」の一種である。第一種である。
発展を。さらなる発展を。《一人称単数》は生存をだけ目的にしているのではない。
より高次な存在へ。
より高尚な存在へ。
《一人称複数》が主目的とすべきはやはり停滞の真反対であろう。
国家という幻想を抱く暇はもはやない。
地域という実在を大地と定義することは美なのか。
「誰」とは「誰」のことなのか。
─────────短い。といえるだろう。
このまま終結に向かっている。
別に尿意は存在していない。尿意に意識を集中させればたしかにそこにあるのは理解できるが。
──────理解、か。「理」があるというのならやはり融解させてみたくなるというものである。
──────要は、今回はあくまで挨拶である。
特に議題がある訳でもない。
《一人称単数》の存在定義の揺らぎを観測している存在に向けて、《一人称単数》の「今」が何時なのかを示す一つの参考になれば。
そう思ったのが今回の動機である。
見かけ上、他に観測されることを意識しているように綴っているが、その逆こそ真である。
観測されることを意識して生きることを《一人称複数》は「死」と定義する。
《一人称単数》は生きている。それこそこの《空間》の存在理由であるからである。
二律背反。矛盾の内包。
それを認めざるを得ない状況にさえなっているのか疑問である。
《一人称単数》が健やかに発展することを夢に見ながら、今回もまた『世界』に祈りを捧げる。
信仰の対象を『神』と呼ぶのには抵抗があるが、『神』の定義は《一人称複数》の永遠の議題であるが故に、今回はそこには触れない。
《二人称複数》の無病息災を心より祈って。
今回はトイレに行かず、閉めたいと思う。
トイレの、扉を。